駿府公園 ― 2012年05月19日 23:01
静岡市の駿府公園へ行きました。
駿府城は、家康が慶長10年に秀忠に将軍職を譲った後移り住んだ居城。ここで家康が晩年も大御所として天下の実権を掌握します。そして駿府を大御所政治の拠点の地と定めたことにより、現在の静岡市の市街地の原型が造られていったそうです。
こちらは本丸跡にある家康の像
駿府城は、家康が慶長10年に秀忠に将軍職を譲った後移り住んだ居城。ここで家康が晩年も大御所として天下の実権を掌握します。そして駿府を大御所政治の拠点の地と定めたことにより、現在の静岡市の市街地の原型が造られていったそうです。
こちらは本丸跡にある家康の像
そしてこちらは本丸堀。本丸堀は一番内側の堀で、1896年に歩兵第34連帯の誘致によって埋め立てられたのですが、平成2年の発掘調査により再び姿を現すことに。下は二ノ丸水路。本丸堀からの水を外に流す目的で作られたものです。
そして資料館へ。肝心の東御門の写真が撮れていないというとんだ失態を・・・(´・ω・`)ショボーン
資料館に入ると家康公がお出迎え。
駿府城の模型
こちらは発見された二ノ丸東御門の鯱
登呂遺跡 ― 2012年05月20日 00:07
ちょっと季節外れ ― 2012年05月23日 19:02
もう5月も下旬なんですけど、桜の塩漬けがあったので作りました。
桜のシフォンケーキ・・・。適度な塩味と桜の風味が良いですよね。
桜のシフォンケーキ・・・。適度な塩味と桜の風味が良いですよね。
桜の塩漬けは、以前ドライブに出かけたとき寄ったサービスエリアで売っていたのを買いました。桜の塩漬けって7分咲きくらいの八重桜を使って作るんですね~。知りませんでした。
八重桜、もっさりしていてカワイイですよね。
久能山東照宮 1 ― 2012年05月26日 23:01
静岡市の久能山東照宮へ行きました。
久能山東照宮には、徳川家康のお墓があります。1616年(元和2年)4月17日に晩年を駿府城で過ごした家康が75歳で死去、その夜に遺命によりって久能山に埋葬されたそうです。その後は東照神君として平和、開運、学問、厄除けの神として崇められています。
なが~い、なが~い石段を登ってやっとたどり着いた楼門です。
久能山東照宮には、徳川家康のお墓があります。1616年(元和2年)4月17日に晩年を駿府城で過ごした家康が75歳で死去、その夜に遺命によりって久能山に埋葬されたそうです。その後は東照神君として平和、開運、学問、厄除けの神として崇められています。
なが~い、なが~い石段を登ってやっとたどり着いた楼門です。
家康の手形がありました。38歳、身長155cm、体重60kgと書いてあります。身長がけっこう低いな~って思ったんですけど、江戸時代の身長の平均が男子で150~160cm、女子で140cmぐらいだと言われているようなので、当時で言えば普通みたいですね。
楼門の獏の彫刻。獏は夢を食べるってイメージですが、獏には鉄や金属を食べるという言い伝えがあって、戦があると武器を作るために鉄や銅が使われて無く なってしまい、獏が生きられなくなってしまいます。獏は平和な世の中でしか生きられないということから、この獏の彫刻は、戦乱のない世の中を願う平和の象徴とされているそうです。
そしてさらに進んでいくと御社殿に到着。1617年(元和3年)建立。日光東照宮より19年も前に造られたそうです。彫刻、模様、組物等に桃山時代の技法をも取り入れられた江戸時代の代表的な建物として、平成22年12月24日に国宝に指定されたそうです。
徳川家康が御祭神ということですが、なんと相殿には豊臣秀吉と織田信長も祀られています。なんとも豪華ですね~
久能山東照宮 2 ― 2012年05月29日 18:37
拝殿にある『司馬温公の甕割り』の彫刻
高価な甕に謝って落ちてしまった友達を助けるために、甕に石を投げつけて、その甕に穴が開き友達が水とともに流れ出てくる場面なんだそうで、生命の尊さが込められているとのこと。
高価な甕に謝って落ちてしまった友達を助けるために、甕に石を投げつけて、その甕に穴が開き友達が水とともに流れ出てくる場面なんだそうで、生命の尊さが込められているとのこと。
そして、こちらが家康のお墓『神廟』 本殿から裏手約50mの所にあります。家康の遺命により遺骸が埋葬され、西向きに建てられているそうです。高さは 5.5m、外回りは8mです。なぜ西向きなのかは、西の外様大名(毛利とか島津とか?)に睨みを利かせるためなんて説があるみたいです。
立て看板より・・・
家康公が、諸人たちに『金の成る木』を問わせられた。これには誰も知らず、公は自ら筆を把られて、三本の木を描き、『よろず程のよ木』、『志ひふかき(慈悲深き)』、『志やうぢ木(正直)』と書かれて、これを常々信用すれば必ず富貴を得られようと仰せられた。
のち細川三斎忠興公が、これに左右の枝にとお添え遊ばしてはとなり『あさお木(朝起き)』、『いさぎよ木』、『志んぼうつよ木』、『ゆだんな木』、『ようじようよ木(養生)』、『かないむつまじ木』と。
左右の枝が繁昌するならば一段と富貴を得られよう、皆々にこの『金の成る木』を写し取って、家内の者に教えるようにと命ぜられたという。これにちなみ誰とは言わず、このところの杉に願掛けとして硬貨を供えるようになりました。